
ハレイワホテルの自由研究も、すっかり間延びした感はありますが
今回で自由研究は一旦おしまいです。
後は今、ハレイワの町で物議を醸している事がありますので
そんな事のさわりをおまけに書いてみようかと思っています。
今回はスライドショーを作ってみました。
機械音痴の私にとって、高いハードルでしたが
やり始めたら、今のソフト、超親切です。
Na Palapalai の歌っているHALE’IWA HOTE を見つけましたので
BGMに入れてみました。
本当はCDを買ったら歌詞カードが付いて来るので、
それを訳してみようかと思ったんですが
16曲中、HALE’IWA HOTE だけ歌詞がない・・・
なんでぇ~????
そんなでしたが、よろしかったら見てやってくださいませ。

ハレイワホテル、現存時の鳥瞰図

現在のハレイワ、
ハレイワホテル跡地には、ハレイワジョーズがある





ハレイワホテルの1階にはパーラー、
台所、食堂と事務所がありました。

島特産の美しいパネル材で作られた、パーラーは広大でした。
左手がホテルフロントです。
印象的な階段は、2階へ続き、

左手の手摺が階段です。
その先には、オーシャンビューのシングル・ルーム、
またはマウンテンビューのスイートが用意されていました。
ハレイワホテルは自家発電を敷地の側に設備し、
電気照明を提供して、
各々の部屋は、電話も備えられていました。
4つの個人用の部屋も、利用することができました。
男性は、ホテルのコテージのうちの1つで、
ブランデーと葉巻を楽しみ、
食後にビリヤード室へ行くこともできました。
スポーツマンには、5マイル離れたワイメア湾の内陸にある、
素朴な「男性用のロッジ」MAUKAで射撃を楽しみました。
その建物は、
ハワイの古いシャクという小屋をイメージしたものなのか
草でふかれた屋根で、木の丸太でできていました。
道の向こうには厩舎があり、
砂糖工場の馬での旅行をすることができました。
アナフル川の流れを利用して、カヌー、
そして、ボートをレンタルすることができました。

1940年代までには、9ホールを備えたゴルフコースは、
ホテルの隣にありました。
多くの古いハワイの歌とフラは、ハレイワホテルを賛美しています。
しかし、時は経ち・・・
1929の世界恐慌の前にさえ、
大損失を出していたハレイワホテルは、
より新しくて、より大きいワイキキホテルとの戦いに敗れました。
ホテルは私立の浜辺クラブに改造されて、
そして世界大戦の間の陸軍士官の
レクリエーションセンターとして用いられました。
また、第二次世界大戦中に、
日系アメリカ人に対する人種差別政策である
日系人の強制収容を支持し推進した人物、
アール・ウォーレンカリフォルニア知事のための
レセプションのための開催地にもなりました。
旧式ではありましたがノースショアではまだ唯一の、
エレガントな会議室でした。
老朽化した建物は利用されることもなくなり・・・
ハレイワホテルは、
美しい農園の町にハレイワという名前を残し、
1952年にその歴史を閉じ、取り壊されました。





この自由研究を始める時は、もっと簡単に、
もう少し納得の行くものができるんじゃないかと思っていました。
しかし現実は厳しく、壁にぶつかりどうしでした。
その壁を乗り越えるような知識も根性もない私は
見なかった事にするというお得意の手法でスルーしましたが
その結果、やはり小2レベルに・・・
こんな稚拙な記事にはなりましたが、
自分ではすこぶる楽しく、久しぶりにワクワクしながら辞書をひきました。
え~!とお思いの方もたくさんいらして当然ですが
楽しかったから、やってよかった!!!
このような自己満足な、拙い自由研究を
お読みくださいましてありがとうございました。


最近のコメント