| 〔真珠湾攻撃〕
1941年12月8日、日本海軍の航空部隊(353機)が真珠湾を襲い、米太平洋艦隊の戦艦群を攻撃した。まず飛行場を爆撃、つづいて雷撃隊が艦船に対して魚雷を放った。在泊8隻の戦艦のうち4隻が沈み、3隻が航行不能となった。また、飛行機231機を爆破した。米軍は2400人の戦死者を出した。日本の攻撃機は29機が帰って来なかっただけだった。ところが空母を撃ちもらした。攻撃開始は、現地時間午前7時55分で、米艦隊にとって全くの不意打ちだった。
戦艦群を爆撃機を使って攻撃して撃沈するという戦法は、世界でも日本海軍が初めてだった。真珠湾の場合、敵の艦隊が停泊中だったので成功したとも言われたが、その2日後にも他地域で同じ戦法で成功している。
この攻撃が奇襲となったのは、最後通牒をタイプするのに手間取ったからだというのは、有名な話だ。この奇襲が米国民にとっては許しがたい騙し打ちになり、国内では開戦論が湧き上がったと。
が、米は日本が開戦するというのは、事前に予知できていた。アメリカは、日本にアメリカを攻撃させたかったのだ。そして、それが最大の難関だった。その年の11月26日に、強硬なハル・ノートをアメリカが提示。当時の東郷茂徳外相は、アメリカが先手をとって、日本に最後通牒を突きつけたと観念し、その5日後の12月1日に、御前会議で、対米英海戦が決定された。そう、日本がハワイを攻撃したのは、アメリカの誘導があったからだ。アメリカにとってこれが日本とドイツに対して宣戦するチャンスとなってしまった。日米間での悲劇はこうして起こった。
日本国内ではこの攻撃に反対する人もいた。というのも、日本は需要の7割以上をアメリカから輸入していたからだ。アメリカは、このことを知っていたので、わざと石油の輸出だけはストップしなかった。そしてストップすると、日本は石油が豊富にある東南アジア方面を占領することを決めた。
〔珊瑚海海戦〕
日本は目的とした南方地域をすべて占領していった。しかし、支配したところをしっかり防衛したかというと、そうでもなかった。これはオーストラリア軍がいたニューブリテン島ラバウルを占領したケース。
そもそも、ここは連合艦隊根拠地を防衛するための航空機前進基地とするためだった。しかし、そのラバウルがポートモレスピー〈ニューギニア東部の南岸〉から飛来する米豪軍の爆撃機で空襲されると、そのポートモレスピーを占領しようと考えた。そこで、考えられたのが、輸送船に陸軍部隊を乗せて上陸させる、いわゆるMO作戦。
しかし、日本はこれに失敗。アメリカ軍も空母を繰り出し、輸送船の護衛艦隊を攻撃して、軽空母一隻を沈めた。輸送船はUターン。結局両軍ともに、敵の機動部隊を発見することは出来なかった。
翌日、日本は空母部隊を進出させた。同時刻に米も進出させた。そして、史上初の日米攻撃機による空母決戦が行われた。珊瑚海海戦である。互いに遠く離れた母艦から発進した航空隊がそれぞれ敵の空母を攻撃した。日本は、2隻の米軍の空母のうち「レキシントン」を沈め、「ヨークタウン」を中破。一方、アメリカは2隻の日本軍の空母のうち「翔鶴」を中破しただけだった。結果、海戦は日本が勝利したが、本来の目的のMO作戦は挫折した。
〔ミッドウェー海戦〕
日本は、今度はミッドウェー作戦を実行しようとした。しかし、この作戦こそが日本の敗戦への道を作ってしまった。というのも、この作戦は、まずミッドウェー諸島(米海軍基地がある)を攻略占領すること、それを防止して付近に進出するであろうアメリカ空母部隊を撃滅するという2つの目的で、特に後者を本来の目的とした。ところが、この作戦に関しては、日本軍の考えが甘かった。さらに、思わぬ事態が発生した。
日本軍は今までの海戦で、太平洋上のアメリカ空母は撃沈したか、修理中か、またはミッドウェー海域から遠く離れた場所にいると思い込んでいた。だから当然、空母を撃滅させようという考えなど、そもそもおかしかった。であるから、どっちみち空母がないと思い込んでいるので、偵察などやる気が起きない。索敵機が近くに、米機動部隊を発見したときは、時すでに遅しであった。
思わぬ発生した事態とは・・・それは、アメリカがこの作戦をすでに早い段階からわかっていたのだ。日本軍の暗号の解読に成功したからである。であるから、アメリカは修理を早めたりして、3隻の空母を用意していた。あいまいな作戦目的のまま出撃した日本の4隻の空母のうち、わずか5分の間で3隻を沈めた。残った1隻の空母「飛龍」は、アメリカの空母「ヨークタウン」を大破。しかしこの後、別の空母に大破され、炎上。日本はわずか1日のうちに日本の主要な空母4隻を失った。
〔太平洋戦線での敗北〕
ミッドウェーで負けた日本は、ガタルカナル島に米軍進出を阻止するために飛行場を建設した。ところが、完成と同時に上陸した米軍に奪われてしまった。1942年8月7日のことであった。今度は、奪回しようと日本軍は3回にわたって攻撃した。1回目は、敵はわずかであると判断して、わずか900名を送ったが、米軍の兵士は1万6千人いた。もちろん、全滅。2回目は、互角だったが、あと1歩のところで火力不足のため、撤退。3回目は、総攻撃をかけて、占領したがすぐに奪回された。撤退した翌年2月までには約25000人もの戦死者を出した。飢えが広まったのである。
日本は打つ手を失った。やっとの思いで再建した機動部隊は、サイパン沖に進出した米機動部隊に全く歯が立たない。航空機と空母を失って、完敗。そのほか、マリアナ沖海戦の敗北、サイパンの陥落、ビルマ戦線の中止(いずれも1944年6月〜7月にかけて)という有り様である。
1944年10月20日、米軍はフィリピンのレイテ島に上陸。その輸送艦隊になぐりこもうとした海軍最後の艦隊は、航空攻撃とそれに続く米艦隊との遭遇戦で大部分が沈没。残ったのは、「大和」、「長門」などのこった軍艦も多少あったが、すでに重油は枯渇し、連合艦隊は事実上消滅となった。
この後の日本の戦いは、体当たり攻撃やバンザイ攻撃など。必死である。が、結局負け続け、日本国内も攻められ、敗戦という方向に向かった。
以上のとおり、日本とアメリカは太平洋上で戦争を行った。ハワイもそのひとつ。今では、観光客がくるほど平穏だが、その60年前にはこんな悲劇があったことを覚えておかなければならない。
<参考文献>「図説第二次世界大戦」〈太平洋戦争研究会著〉「太平洋戦線の真実」
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