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ミッドウェー海戦・真珠湾攻撃&山本五十六・パールハーバー
はじめに

ハワイが修学旅行地に決まった時点で、観光地とか学習地とかの色々な知識とは別に、日本が起こした「戦争の事実」パールハーバーには立ち寄るべきだろうと思った。
戦争の是非については司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読んで、軍国主義の時代背景や世界の潮流が日本を追い詰めていったことなども考え合わせ一概には言えないが「ニイタカヤマノボレ...」で始まる開戦行動が日本人としてうしろめたい気分にさせられているのは間違いない。
又、先日の「えひめ丸」の事故についても日米関係にとってのハワイというのは、近くて憧れの島なのにとても因縁の深い島である。

ミッドウェー海戦

二兎を追う者一兎をも得ず。本作戦はその諺の意味を表現するかのような結果に終わっている。まず戦略目的からして、東側への防空警戒網の拡大、もしくは米軍機動部隊を捕捉し、撃沈することとなっており、二つの目的を兼ねているのは欲張りすぎだった。
戦術目標も、アリューシャン、及びミッドウェーの攻略、もしくは米空母を撃沈することで、一貫性に欠けている。
作戦結果は日本にとって惨憺たるものだ。日本側は虎の児の空母四隻を捕捉され撃沈される。ミッドウェー攻略も断念。この一戦を境に主導権は米軍の手に移る。
アメリカ側の損害は 空母一大破(後に沈没)にとどまり悲惨な結果を生んだ。しかし、もっとも大きな痛手は、熟練した航空機搭乗員多数を失ったことだろう。

昭和十七年四月十八日、突如現れた米軍の爆撃機が東京を空襲した。十六機の双発爆撃機B25は、空母ホーネットから飛び立って東京周辺を爆撃したのである。双発の中型機が空母から発進するのも前代未聞のことだが、米軍は航続距離の限界を遥かに超えた搭乗員の生還は期しがたい作戦を強引にやってのけたのである。
爆撃による損害はたかがしれたものに過ぎなかったが、心理的効果は絶大だった。特に衝撃を受けたのは、連合艦隊司令長官の山本大将だった。山本長官は帝都(東京)の空は絶対に安全だと自ら豪語していたほど、防空任務には重きを置いていた。しかし、現実に東京は空襲を受けたのである。 山本長官は日本が勢力圏を拡大した南洋はさておき、北太平洋の警戒網を整備すべきという信念を持って、太平洋の警戒網を東側に拡大するため、アリューシャン、ミッドウェーを攻略する作戦を立案した。また、これを阻止しようと米機動部隊が出てきた場合にはこれと決戦する覚悟である。 むしろ作戦の目的は後者に重きが置かれてしかるべきだったが、ミッドウェー攻略にも相当な力を注いでいた。陸軍部隊三千のほか、海軍陸戦隊二千八百、ほかに設営隊、気象隊などが三千二百という大規模な上陸作戦計画であった。

世界でも最高の水準に達した、厳しい訓練を受けた航空機搭乗員ばかりの第一航空艦隊が今回の作戦でも主役を務めるはずだった。そして、第一航空艦隊の四隻の空母を中心にした機動部隊のほか、戦艦大和を擁する主力部隊、巡洋艦に守られた上陸部隊などに分かれた大艦隊は、実に連合艦隊のほぼ全力だと言える。一部はアリューシャン攻略に回ったが、有力な部隊はすべてミッドウェーを目指していた。

アメリカ側は日本海軍の電波傍受と暗号の解読により、日本側が全力を挙げて出撃する大作戦が実施されることを予知していたが、目標地点の確定は出来なかった。日本は目標地点をAFという暗号名を使っていたのだが、その有力な候補の一つはミッドウェーだった。米軍はわざと暗号を使わずに、ミッドウェーでは海水濾過装置が故障したというつまらぬ意味の電文を放ったところ、これを傍受した日本海軍は「AFでは真水が不足している」という暗号電文を放った。これで日本の上陸目標は露見してしまった。

米軍は陸軍の大型爆撃機B17まで動員し、ミッドウェー航空基地の戦力を充実させるとともに、太平洋艦隊にはただ一隻だけ健在であったエンタープライズ、大西洋からパナマ運河経由で回航したホーネット、さらには、珊瑚海海戦で受けた傷も癒えていないヨークタウンまで動員し、日本艦隊を迎え撃つ機動部隊を編成した。ことにヨークタウンは大破していたため修理中であったが、修理に従事する作業員を乗せたまま出航という、強引なやり方であった。それだけにアメリカのこの一戦に賭ける意気込みが感じられる。

六月五日、夜明けとともに日本機動部隊はミッドウェー島の空襲にとりかかった。第一次攻撃隊は空母から飛び立つとミッドウェー航空基地の空襲に向かった。
ミッドウェーではかねてから日本軍の来襲を待ちかまえており、陸軍のB17も海上に出して日本機動部隊を攻撃させるなど執拗に反撃を加えたが、日本機動部隊はかすり傷もおわなかった。それは日本の零式艦上戦闘機(いわゆる零戦)の活躍によるところである。来襲した米軍機を一切艦隊に近寄せず、多数の米軍機を撃墜した。陸上基地と空母の航空戦では空母が不利だと言われていたが、その定説を覆す勢いで日本側は米軍機を撃退した。一方、日本側の空襲でミッドウェー基地にも損害があったが、損害の程度は不充分であると判断されたため、第一航空艦隊司令の南雲中将は第二次攻撃を実施することとした。

米機動部隊の出現に備え、魚雷を装備した攻撃機を陸上用の爆弾に交換し終えた頃に、偵察機が米空母を発見した。陸上用の爆弾で艦船を攻撃しても効果は薄い。南雲はさらに爆弾を魚雷と交換するよう命じた。その交換作業の最中に三隻の米空母を発進した攻撃隊が日本機動部隊に襲いかかった。零戦たちの活躍も及ばず、赤城、加賀、蒼龍の空母三隻が次々に爆弾の直撃を受け、無事なのは飛龍一隻だけになってしまった。

ただ一隻になった飛龍は攻撃隊を発進させ、ヨークタウンに爆弾三発を命中させ、なおも第二次攻撃隊を放ち、ヨークタウンに今度は魚雷二発を命中させた。しかし、飛龍一隻の奮闘もここまでで、米空母から放たれた攻撃隊の攻撃により飛龍も直撃弾を受け、ついに日本空母四隻はすべて沈没してしまう。空母を失ったのは大きな損害だが、多くのベテラン搭乗員を失った影響は更に大きい。日本海軍の航空攻撃力は半減したのである。

真珠湾攻撃&山本五十六

開戦前、日本海軍の対米戦は明治以来の伝統ともいえる邀撃漸滅、つまり艦隊決戦を主作戦とし研究に励んできた。ワシントン・ロンドン海軍軍縮会議で対米英7割となっても、統帥部は「米国恐るるに足らず」との声が強く、開戦派が台頭してきた。時の連合艦隊司令長官山本五十六はこの考えに反対であった。彼の考えは日本がアメリカと戦争やって負けないですむにはひたすらこっちが攻撃の主導権を握り、短期決戦により条件を付けての講和に持ち込むしかない・・・・、と判断した。海軍中央が考えている長期持久戦構想や日本近海での艦隊決戦思想などまったく相手にしなかった。連戦連勝をして敵に厭戦気分を沸きおこさせ、講和にもちこむ・・・。言ってみれば奇跡を信じるしかなかったのである。

そして山本お気に入りの黒島亀人先任参謀のもとで真珠湾攻撃が立案されていったのだった。無論この無謀ともいえる作戦は、どだい軍令部に認められる内容ではなかった。それぐらい賭の要素が強かったのである。黒島がハワイ作戦を認めさせるために軍令部で言った有名な言葉がある。

「山本長官はハワイ作戦を職を賭しても断行すると主張しておられる。もし、この案が容れられなければ、皇国の防衛に対し責任が持てないと伝えよ、と言われた。長官はその職を辞するほかない。われわれ全幕僚も同様である」

山本の伝統の作戦を無視した「自分の戦争」に対する固執が伺える。
作戦は大成功に終わったかのように見えた。しかし山本長官は敵空母を逃したことを大いに悔やんだ。また、450万ガロンに上る重油タンクとドックが無傷で残してしまったことも悔やまれる。 事実、今後神出鬼没のアメリカ機動部隊に悩まされ、帝都初空襲を許してしまい、コレがミッドウェーの引き金となってしまうのである。また宣戦布告が遅れたため逆にアメリカ国民の敵愾心を煽り反日感情を激化させてしまったのも痛い。まぁこれは山本には罪ないことだが・・・。

山本五十六 海軍大将(死後元帥)
明治17年生まれ。新潟県出身。海兵三十二期。日本海海戦で戦艦三笠に少尉候補生として乗り込み、重傷を負う。
また駐米武官を勤めた経験からアメリカを知る。ロンドン海軍軍縮会議で名を売る。
開戦前から彼は国際感覚豊かな優れた軍政家として有名だった。日本でアメリカを正しく評価できる数少ない人間の一人である。

最近になって凡将説まで出てくるようになったが戦略戦術観、大局を見通す視野の広さなどは抜群のものであったことは紛れもない事実である。
彼の欠点といえば人付き合いの悪さ、越後人特有の孤高を楽しむ感があり、説明や説得を嫌い、わからぬものは放っておき、ついてくるものだけを好む・・・そんなトコロが彼の人間に対する不信、偏愛となって現れた。
彼はアメリカと日本の国力を冷静に分析し、その生産力はケタ違いに劣っていることを見抜き、アメリカとの戦争は国を滅ぼすと訴え続け、開戦論派と対立していた。
日米戦の見通しを尋ねられたとき「1年半は存分に暴れ回ってみせます。しかしそれ以降はわかりません」と有名な言葉を残している。
無論、こんな考えを主張しているとナチスかぶれの陸軍や、右翼に危険人物としてチェックされるようになり、命の危険まで発生してきて、米内海相は「山本をこのまま東京においたのでは殺される」と憂慮し、彼を比較的安全な海上勤務に回したと言われる。

また彼は航空機の優位をいち早く見抜いていた数少ない提督であった。ロンドンから帰ってきた山本は海軍省出仕兼軍令部出仕という閑職に追われた。部内のタカ派に冷や飯を食わされたのだ。このとき本気で海軍を退役することを考えたという。しかし1935年12月に海軍航空本部長の椅子が与えられた。
今の感覚でいうと非常に重要なポストを与えられたかのように思うかもしれないが当時の海軍中枢の頭はやはりまだ大鑑巨砲主義・・・つまり海戦至上主義がほとんどだった。つまりこの人事も周囲から見れば何でもないものだった。

しかし山本にとってはこれ以上の職はない。彼は熱心に職務に励んだ。様々な困難を乗り越え、基地航空隊の編成、航空機増産のため大和級戦艦の3番,4番艦の建造中止・・などを進め、「海軍航空の父」と呼ばれるようになった。

真珠湾の空襲とマレー沖海戦での航空機の投入は海軍部内に根強く残る戦艦至上主義に対する航空主義の自説を証明するためにおこなったという説が強い。柱島に戦艦群を張り付けにしたのがなによりの証拠であろう。皮肉なことに彼の目指した機動部隊中心の艦隊編成を実現したのは日本ではなくアメリカだった。真珠湾で航空機の優位を敵に教えてしまったのである。

しかし彼の伝統の作戦を無視した指揮は多くの将官の反感を買った。彼の非凡な指揮は士官の理解を得ることができなかったのだ。特にミッドウェー以後戦局が悪化すると彼に対する風当たりは一層強くなった。それでも彼らが表だって山本を批判をしないのは「天皇か山本か?」とまで言わせた彼の異常なほどの名声だった。

そして昭和十八年四月一八日、前線視察のためラバウル基地から一式陸攻に搭乗した。護衛の戦闘機は6機。当初はラバウルの全戦闘機を挙げて直掩するつもりだったが山本はそれを丁重に断った。この一連の行動を無線傍受により察知したアメリカ軍は刺客を送り込む。そしてブーゲンビル島上空で16機のP−38の待ち伏せを受け、護衛機の善戦むなしく、2発の機銃弾を頭部と胸部に浴びて壮烈なる戦死を遂げた。

一説には部内で孤立化する状況に耐えきれなくなった一種の自殺行為であったとの見方もある。開戦から1年半・・・・ちょうど開戦前に山本が指摘した時期であるのは偶然ではないだろう。これ以後日本の戦局はみるみる悪化していくのである。

当時の日本でもっとも識見に優れ、国際戦略眼のしっかりしていた山本が陸軍がやったように強権を持って国政を指導していたら、このような悲惨な戦争は起こらなかった・・・という意見もあるらしい。確かに一度踏み外した道を修正するのは容易なことではなく彼一個人の力でどーなるかは疑問もあるが、1%でも可能性があるなら俺は彼に賭けてみたかった。海軍が政治には関与せずの原則を守り通したのは日本にとって良かったのか悪かったのか・・・・?
俺としては彼は連合艦隊司令長官は合ってないと思う。彼以外にも勇猛果敢な提督はいたし、なにより彼以上の政治力をもった軍人は海軍には居らず、彼は軍令部総長か海軍大臣になるべきであったと思う。その非凡な能力をここぞとばかり発揮できたろうに・・・。
・・・と山本があたかも完璧な人間だったかのように書いてきたが彼にも失敗はいくらでもある。ミッドウェーは世論に押されたとはいえ、作戦計画のズサンさ、連勝の油断・奢りが端々に伺える。そしてなにより山本が犯した最大の失敗は敵(アメリカ)に航空機の優位性を教えてしまったことであろう。
航空機は消耗品であるし、なにより人的資源がアメリカにくらべ極端に劣っているのだ。アメリカでは民間航空が発達していて、民間パイロットが沢山いて、ちょっとした訓練を施してすぐ戦場に出せる。しかし、日本は何年もの厳しい訓練を経てようやく一人前のパイロットとなる。補充力がケタ違いなのだ。

それに航空戦は数がモノ言うのだ。大量生産をやらせたらアメリカにかなう国は地球上存在しないだろう。日本の月産100機としたらアメリカは数千機は余裕なのだ。何も飛行機に限ったことではない。基礎工業力が違うのだ。持久戦にはめっぽう強いのだ。しかし、初戦の日本軍の勝利はひとえに優秀な航空部隊の活躍に大きく負っている。つまり、日本が勝つには短期決戦でアメリカが本気を出す前(航空機の大増産が始まる前)に講和にもちこむしかないのだ。山本長官はどう考えていたのだろうか。

山本は国民に愛されながら海軍部内ではずっと孤独だった。天才故に理解されない・・・とでも言おうか、ついに士官達に理解されることなくニューギニアで散った。おそらく山本は日本の先が見えてしまったのではないだろうか。戦前に予告した時期と一致するのはなんとも言えない。 俺も山本の自殺ではないかと考えている。そうでなければ、宇垣参謀長が長官の移動先に詳細な計画予定をいくら暗号を使うとはいえ打電するであろうか。山本長官自身が密かに宇垣参謀に頼んだのではないか・・・とも推測できる。

最後に、山本長官のような非凡なセンスに恵まれた軍人は今後出現するのであろうか・・・。混迷する世界情勢の中で自衛隊の果たす役割はさらに重要になってくる。どんな大軍を持っていても指揮官が無能なら烏合の衆に過ぎない。しかし、優秀な指揮官に恵まれれば、戦力少ない自衛隊もなんらかの役に立つことが出来る軍隊になるであろう。山本長官は今の日本をどのように感じておられるのだろうか・・・・

真珠湾攻撃

日米交渉決裂、11月26日単冠湾を出た機動部隊は一路ハワイへ昭和16年12月2日、攻撃決定「新高山上レ」の暗号電を受け取る。8日、6隻の空母から飛び立った183機は米軍に見つかることもなくまず飛行場を爆撃,つづいて雷撃隊が艦船に対して魚雷を放った。第2波171機もこれに参加。かくして奇襲作戦は成功。帰らぬ攻撃機は29機であった。(沈没)米戦艦5隻(死者)米2,404人。

宣戦布告 1941年12月8日
日本は、真珠湾に奇襲攻撃をする30分前までに、アメリカに対し「最後通牒(宣戦布告)」を手交する手筈になっていた。しかし、ワシントンの日本大使館は暗号解読に手間取り、攻撃開始後1時間以上も経ってから、ハル国務長官に手交した。

この最後通牒は、予告電に始まり、本文(通告文)が14通と、最後に手交時刻を指定した電報(「本件、対米覚書貴地時刻7日午後1時を期し、米側に貴大使より直接手交あり度し」)の三部構成となっていた。本文14通目の末尾には、「斯くて日米交渉を調整し、合衆国政府と相携えて太平洋の平和を維持確立せんとする帝国政府の希望は遂に失われたり。よって帝国政府はここに合衆国政府の態度に鑑み、今後交渉を継続するも妥結に達するを得ずと認むるの外なき旨を、合衆国政府に通告するを遺憾とするものなり」

この日本大使館の失態は、アメリカにとってはありがたい出来事であった。数ヶ月前にルーズベルト大統領はイギリスのチャーチル首相と会談し、ヨーロッパに君臨しているドイツに対抗するため、ヨーロッパに派兵して欲しいとの要請を受けていたが、議会と国民の反戦運動によりルーズベルト大統領は苦慮していたからである。参戦するための大義名分が必要だったのである(日本の同盟国であるイタリア・ドイツに対して宣戦布告した)

このハワイ奇襲攻撃を受け、ルーズベルトはすかさず全米に向けて演説した。
「日本は、宣戦布告前に本土(ハワイ)攻撃をした。これは、だまし討ちである」
と国民に訴えた。これに怒った国民は反日感情が一気に高まり、国を挙げて日本攻撃に立ち向かったのである。
実際には、日本海軍が真珠湾を攻撃する日時は、「日本政府−ワシントン日本大使館」との暗号外交電報の解読により、日本大使館より早くわかっていたのである。また、この奇襲攻撃の直前に駆逐艦ワードが真珠湾に潜入しようとしていた日本の特殊潜航艇に対し、砲撃と爆雷攻撃をした事実は有名である。

この作戦を発案したのは「山本五十六聯合艦隊司令長官」であった。この奇抜な着想を、大西瀧次郎少将と源田実中佐の2人が研究して、1941年3月に山本長官に提出し承認を得た。(この時点では、まだ「研究プラン」の域を出ていない)ただし、この作戦を実施するためには、関係者(軍令部と司令官)の意志を統一しておく必要があり、10月10日の長門艦上における図上演習が終わりに近づいた時、山本長官は「真珠湾作戦についていろいろな意見が述べられたが、これは全般の戦略体制を考えた帰結として計画したものであり、私が聯合艦隊司令長官である限りは、真珠湾作戦は必ずやるつもりである」と言いきった。そして軍令部に対しては、黒島亀人大佐を東京に派遣して軍令部との交渉に当たらせた。

軍令部の担当官は依然として反対の態度を変えなかったが、黒島大佐は山本長官の指示通り、「長官はこの案が採用されない場合には、皇国(日本)の防衛に対して、もはや責任が持てない。長官の職を辞する他はない」と宣言し、強引に承諾を得た。

聯合艦隊は、1940年9月6日の御前会議で決定された"帝国は自存自衛を完うするため、アメリカ・イギリス・オランダ等と戦争をも辞さない決意の下に、10月下旬をめざして戦争の準備を整える"に従って、戦時編成をとっていた。また、この御前会議で決定した"帝国はこれと並行して、アメリカおよびイギリスに対し、外交の手段をつくして帝国の要求貫徹につとめる"に方針に従って、ワシントンで日米交渉が推し進められた。

10月18日
東條内閣が成立。アメリカとの交渉は難航。

11月17日
機動部隊は、佐伯湾から集結地である択捉島の単冠湾に向けて出航した。

11月22日
機動部隊(南雲艦隊)は、集結地"択捉島単冠湾"に勢揃いした。それは、いままでに見たことのない大部隊であった。ここで初めて乗員に作戦目的(真珠湾攻撃)を通知し、各艦隊の司令官に「もし、日米交渉が成立した場合は、反転帰投する」すると命令したが、司令官の中には、「高揚した士気のはけ口をどうするのか?」「一旦出撃したら、帰投する事は出来ない」などの意見が出たが、これに対して山本長官は「日米交渉が成立した場合は、帰投してもらう。これが出来ない長官は即刻任を解く。辞表を出せ」と一喝した。これに異を唱える者は皆無だった。

11月26日
南雲艦隊(南雲忠一中将)はハワイ北東海域に向け出撃。

11月27日
アメリカ太平洋艦隊司令長官キンメル大将は、ワシントンより「最高機密。日本との交渉は終わり、日本の侵略的行動はここ数日間に予期せらる」の電報を受けた。戦争になった場合にハワイにいる日系人の破壊活動を恐れて、それまであちこちの飛行場に分散してあった航空部隊の飛行機を、格納庫のエプロンにに集めて24時間体制で監視した(アメリカ側は、ハワイに対する日本の攻撃は潜水艦によるものとみていた。)

12月 1日
東京で御前会議が開かれ、アメリカ・イギリス・オランダに対する開戦を決定。

12月 2日
"ニイタカヤマノボレ1208"の暗号電報を全軍に打電。開戦の日時は、1941年12月8日(日本時間)と決定した。

12月 7日(ハワイ時間)
午前 5時50分
南雲艦隊は各母艦より計183機の第1波攻撃隊(隊長 淵田中佐)を発艦。

午前6時45分
真珠湾の湾口を哨戒していた駆逐艦ワードは、湾口に潜入しようとしている潜水艦(特殊潜航艇)らしいものを発見して攻撃し撃沈した。−対米戦争はアメリカ側の攻撃で始まった。このころ、計167機の第2波攻撃隊が発艦していた

午前7時00分
オアフ島のレーダー基地は、スクリーンに2つの振動波を認め、それが距離200Kmに達した時点で電話で情報センターに報告。報告を受けた当直士官は「それは関係ない」と返答した。そのころ、B17の編隊が、本土からハワイに向かって飛行中であったためと思われる。

午前7時40分
淵田中佐機は、真珠湾上空に敵機がいないと判断し「トラ・トラ・トラ(奇襲成功)」の電報を打った。この電報は南雲艦隊はもちろん広島湾の長門でもしっかり受信した。

午前8時00分
急降下爆撃機がフォード島の航空基地に250キロ爆弾を投下したのが最初であった。これと同時に雷撃機が、真珠湾上に低空で進入し、それぞれの目標艦に向かって魚雷を発射した。真珠湾は、一瞬にして地獄へと突き落とされていた。第1波の攻撃が完了したとき、戦艦2隻は沈没し、各基地にあった航空機は炎上・破壊されていた。

午前9時00分
第2波の攻撃隊は、対空砲火と戦闘機による反撃で損害が多くでた。

12月 8日(日本時間)
この日の早朝、日本国民はラジオの臨時ニュースで目が覚めた。
「大本営陸海軍部発表。12月8日6時。帝国陸海軍は、今8日未明、西太平洋において米英蘭と戦闘状態に入れり」
これにより、日本は泥沼の日中戦争に引き続いて、1945年(昭和20年)8月までの3年8ヶ月にわたる"太平洋戦争"に突入したのである。

戦果・被害

奇襲による航空攻撃は予想をはるかに越える結果であった。わずか2時間足らずの攻撃で、戦艦2隻を轟沈し戦艦・巡洋艦各4隻を大破、飛行機300機以上を撃破した。
集中した空からの攻撃力はそれまでの海軍思想を根本的に覆すもので、これと同程度の戦果を艦隊のみで行うには、航空攻撃の数倍の時間が必要である。また戦艦の射程距離は30Kmと短いのに比べ、この航空攻撃では、300Km以上離れた場所から攻撃している。これは、これまでの大艦巨砲の思想を否定するには十分過ぎる程の戦果であった。しかし、日本は航空攻撃でこれだけの戦果を上げておきながら、巨砲主義を捨てる事が出来なかった。それは、今までの海軍思想を革命するために計画されたものではなく、真珠湾を奇襲するためだけに着想されたものだからである。

日本側
雷撃機−−−−− 5機
戦闘機−−−−− 9機
急降下爆撃機− 15機
特殊潜航艇−−− 5隻(4隻沈没・1隻座礁)

  アメリカ側
●沈没・大破
戦艦−−アリゾナ、オクラホマ
標的艦−ユタ
駆逐艦−カッシン、ダウンズ
●中破(長期使用不能)
戦艦−−ウェスト・バージニア、カリフォルニア、ネヴァダ
施設艦−オグララ
駆逐艦−ネオショー
●小破
戦艦−−−−テネシー、メリーランド、ペンシルヴァニア
巡洋艦−−−ヘレナ、ホノルル、ラレー
工作艦−−−ヴェスタル
水上機母艦−カーチス
●航空機
海軍−破壊92機、損傷31機
陸軍−破壊96機、損傷128機
●人的被害
陸軍−戦死者 222名、負傷者360名
海軍−戦死者2112名、負傷者981名

その他

この真珠湾奇襲攻撃では、なぜか第2次攻撃隊を編成して再度攻撃しなかった。また、50万トン以上の露天燃料タンク(ドラム缶)と工廠の機械施設・修理施設に対して、一発の機銃も撃っていなかった事である。そして、この攻撃の最大の目的である航空母艦がたまたま出港していて不在であり攻撃出来なかった事である。もし、日本軍が航空母艦と地上施設に対して攻撃していたならば、また違った展開になったことであろう。

山本長官が真珠湾奇襲の目的を「開戦劈頭に敵主力艦隊を撃破して、アメリカ海軍とその国民の士気の喪失」としていた。その艦隊を壊滅(この艦船群は、そのほとんどが速力が遅い旧式艦で、空母の護衛や日本の新型艦艇と戦うにも不適であった)することは出来たが、アメリカ国民の戦意は逆に高揚させる結果となった。

アメリカ大統領ルーズベルトは「合衆国は、日本帝国に真珠湾を、突如・計画的な攻撃を受けた」と、全米に向けて演説した。米国の世論は参戦に消極的だったが、この事実を知って一気に反日感情が高まった。

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