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ハワイの日系移民について
■日本人がハワイに移民する事になったきっかけ

ハワイ王国の国王デイビット・カラカウアは、1881年ハワイの王族としては初めて日本を訪問し、明治天皇に面会しました。国王は、日本以外の海外の国からの干渉をうけて、様々な問題に直面していることを訴え、日本政府と友好関係を築きたいと表明しました。3年後、カラカウア国王の希望は現実のものとなり、日本政府とハワイ王国の間で条約が締結されました。この条約でハワイ王国は、日本からの労働者を受け入れ、彼らの生活を保証することとなり、日本政府は移民を募り、初めてハワイに移民を送ることとなりました。

■第二次世界大戦前

日本人がハワイへ移り住んできたのは、1世紀以上も前のことで、製糖プランテーションへの出稼ぎが主な目的でした。1861年の南北戦争により、アメリカ産の砂糖の輸送が途絶え、ハワイ製の砂糖の値段が急騰しました。
その結果ハワイの製糖業者は中国、日本、ポルトガル、プエルトルコ、韓国、フィリピンから労働者を募り、さらにその他にも少数ながらノルウェー人、スペイン人、イタリア人、ロシア人そしてアメリカ合衆国南部出身のアフリカ系アメリカ人も、ハワイの製糖業に従事し働いたのです。
ハワイについた時、彼らを待ち受けていたのは、渡航前に聞いたよりも遥かに過酷な条件でした。ルナと呼ばれた監督の監視下、砂糖きびの刈入れや運搬、除草など、耕地での労働は大変つらいものでした。
数々の困難を乗り越え、1世たちは素早くハワイでの新しい生活に順応していきました。やがて女性達は他の民族から裁縫を学び、とてもユニークな労働着を生み出していきました。絣のジャケットにダンドール風のスカート、黒帯風の腰巻や麦藁帽子など、金銭的余裕の無いなか、安い材料や古着を再利用してハワイ耕地生活に適応した服装を作り出していったのです。
砂糖きび畑での昼食は、丈夫な鉄製の箱に入った弁当でした。下の段にはご飯を、そして上の段にはささやかなおかずを入れました。そして、様々な国からやって来た仕事仲間たちと、いつしかおかずを分け合うようになったのです。
食事は、様々な民族を結びつける重要な役割を果たしました。耕地での昼食時間に各民族がそれぞれの食べ物を分け合い、対話を始めることで次第にお互いを知り、他民族間の人間関係を築いていったのです。食事と同様、言葉も異民族間で共有され、共通言語としての「ピジン英語」が生み出されました。「ピジン英語」は、英語にハワイ語、中国語やスペイン語など、様々な言語が混ざって出来たハワイ現地特有の言葉なのです。

■大戦中

1920年代から1930年代にかけて日米関係は悪化し、両国の間には緊張関係が高まりました。1940年に日系人口は、ハワイ総人口(423,330人)の40パーセント近くに達していました。教育界やビジネス、労働組合運動などにおける日系人の活躍は、白人支配層の日本人不信に拍車をかけました。
1941年12月7日(日本時間12月8日)の真珠湾攻撃は、ハワイ日系人を驚愕させると同時に彼等に底知れぬ 怒りも抱かせました。日系人は一世も二世も既にアメリカの精神を身につけ、変わり続けるハワイ社会の一員として長年貢献していました。しかし日本の宣戦布告によって、彼等の「アメリカ人」としての忠誠心が問われたのです。特にアメリカにおいて一世は、法的には「外国人」扱いでしたから、日系人のアメリカに対する「忠誠心」が問題とされたのです。
真珠湾攻撃直後、神官や僧侶、日本語学校教師や日本領事館員、武道指導者などの一世リーダーならびに帰米二世、計370人が「要注意危険人物」としてFBIに逮捕されました。夫や父親に同伴した人々を含め計1444人のハワイ日系人が拘禁され、その何人かはアメリカ本土の収容所へ送られました。
ハワイは軍事的に非常に重要な位置を占めていましたが、日系人の友人を持つハワイのリーダー達は、民主主義とアロハの精神の下に、ハワイ日系人の強制収容阻止に成功しました。
1942年6月、既に従軍していたハワイ日系人は、元の部隊から「第100歩兵隊」という日系人だけの部隊に移籍され、1943年9月、同部隊はヨーロッパの最前線へと派遣されました。イタリア・フランス最前線での激戦は、わずか10ヶ月のうちに隊員130人中、300人の戦死者、620人の負傷者を出しました。その戦績を称えるパープルハート勲章をいくつも受勲したことから、第100部隊は「パープルハート部隊」と呼ばれました。
彼等の輝かしい戦果は、アメリカ国防省の日系人排除政策を改めさせ、1943年2月、1,500人の日系兵士の新規募集を行いました。この募集に対し、10,000人近い応募が集まりました。
1944年6月11日、第442大隊は第100部隊に合流しました。両部隊は終戦まで勇敢に戦い、7回の大統領特別 表彰、18,143の功労勲章を受勲しました。第100部隊と第442大隊は、米軍史上、その従軍期間においてもっとも多くの表彰を受けた部隊として知られています。

■大戦後

終戦を迎え、ハワイへ帰った2世兵士は、喜びに浸りながらも戦争の恐ろしさと死んでいった多くの戦友のことを忘れることはできませんでした。アメリカ社会において、彼等は自らがそして家族がアメリカ国民として平等に扱われることを期待しました。彼等はその権利を自らの血で勝ち取ったのです。
アメリカ従軍者は「G.I.権利法」によって政府から様々な経済的支援を得ることができました。2世兵士も帰国後、その恩恵でビジネスを始めたり大学に通 ったりしました。そして彼等はやがて戦後ハワイ社会に大きな影響を及ぼすことになったのです。
労働組合運動は、また彼らの権利と平等の獲得に大きく貢献しました。戦後、アメリカ労働組合運動の指導者は、港湾労働者と耕地労働者を団結させ、ハワイに強力な多民族からなる組合を誕生させました。1946年、ILWUはハワイ全土の33の砂糖耕地でゼネストを敢行したのです。
1896年のアメリカ合衆国による併合以来、ハワイ政界は白人支配層(共和党)によって独占されていました。第2次世界大戦後、各民族集団の若いリーダー達は、ハワイにおける法的改革を目指しました。多くの2世たちは民主党を通して自らの声を国会に届けようと試みたのです。民主党選出候補者が議会を席巻した1954年のハワイ地方選挙は、「流血なき革命」と呼ばれました。
新しく選出された2世の民主党議員は、最低賃金の引き上げや税法の見直し、労働者医療保険制度の改善や公立学校の質の向上、また短期大学やハワイ大学の発展などに精力的に取り組みました。
それからハワイをアメリカ合衆国の州にすることも、2世政治家たちの優先議題でもありました。1959年3月12日、ハワイ中にサイレンが鳴り響き、新聞の一面では「ついに州へ」という見出しで埋め尽くされ、人々はこれを心から祝いました。ハワイが州に昇格できたことは、ハワイ住民が従来税金を払いながらも連邦議会へ自ら選出した議員を送れなかったかつての非民主主義的状況からの脱却を意味したのです。そして2世にとってそれは何よりも、完全なアメリカ市民としての地位を獲得しことを意味していました。

■日系三世の役割

1世パイオニアたちは、遥々海を越えてハワイへやってきました。2世達は、これから続く世代のために道を準備しました。彼等はハワイのプランテーション社会を機会に満ち溢れた社会へと改革していったのです。1960年代から1970年代にかけて、ハワイを含めたアメリカの若者は、公民権、女性の地位 、環境問題に対する旧存の考え方を問い直し始めました。このような時代背景のなかで育ったことは、3世達のアイデンティティや社会観に大きな影響を与え、様々な文化の違いを尊重する態度を生み出したのです。
1970年代から1980年代にかけて、アメリカの様々な人々は、自らの民族文化に対するプライドを回復しようと努めました。ハワイにおいては、伝統的ハワイアン文化が復興されました。3世はハワイアン文化の復興と同時に、自らの日本文化の復興も試みたのです。
日系3世は今日、自らの世代を2世と4世の「橋渡し」だと考えています。今日、日系人はハワイ全人口の約22パーセントを占めます。その半分近くの結婚が他民族間でおこなわれており、家族構成は極めて多民族的になりました。
3世たちは4世の子供を育てながら、ハワイの将来を形成していく責任を感じているのです。ハワイの4世・5世たちは「アメリカ化」され過ぎて、またハワイの「ローカル」に強く根ざしてしまったが故に、「日系人」であることを意識しなくなっているのではないかと思います。

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