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移民の歴史
日本人の海外への移住が正式に行われるようになったのは1885年(明治18)で、ハワイへ渡ったシティ・オブ・トウキョウ号が最初である。その後、移民会社の設立に伴い、1891年頃からオーストラリアや、フィジー、フィリピン等への移民も行われるようになった。ハワイへの移民が国によっって取り扱われていたためにハワイ島への移民の斡旋は厳しく統制されていたので、その他の地域への移住が移民会社によって行われるようになったのである。やがて北米やカナダへの移住が多くなっていく。第2次世界大戦中は満州への移住が大多数を占めるようになる。このような日本全体の移住の歴史の中でハワイ移民はアメリカへの日本人の移住が禁止される1924年(大正13)までの初期にあたる移民である。

18世紀末、カメハメハ1世によりハワイ諸島は統一され、ハワイ王国が成立した。19世紀前半に、イギリス人がホノルル近郊に耕地を開いて砂糖の原料になる甘蔗を栽培したのをきっかけに、その後、アメリカ、フランスが製糖所を設置するようになった。特にフランス人が新しい製糖方法を取り入れてから生産された砂糖が、市場で相応の値が付けられるようになったため、ハワイ諸島各地で、白人の資本家による砂糖産業がおこってきた。労働力は現地で調達していたが西欧諸国から技術と共に伝染病や諸病がハワイに流入したためにハワイ人の人工が急激に減少し、甘蔗耕地で働くハワイ人労働者にも影響がでてきた。そのために1951年より中国人労働者が導入されてくる。

しかし、中国人が耕地への定着率が悪く、ハワイ人と同化しにくいという事実がわかるにつれて、ハワイ政府は他国のよりよい労働者の導入を考えるようになった。

そこで、日本人は植民地化されておらず、比較的自由に労働力を確保でき、ハワイに近く、また低賃金で雇用可能な為、新しい労働力として注目された。ハワイの外務大臣R・C・ワイリーは、日本人労働者を導入することによって、耕地の労働力不足を解消し、また、移住者の同化による現地人の人口増加を考え、1865年に横浜に住む商人ヴァン・リードを駐日ハワイ国総領事に任命し、日本との通商条約の締結と日本人移民の導入に対する準備にあたらせた。

ここで起こるのが元年者事件である。1968年、ヴァン・リードは153名のハワイ渡航希望者を集め横浜港に停泊中の英国船サイオト号に乗せハワイに向け出発する予定であった。しかし、時代は明治へ変わり、新政府はリードが幕府から得た渡航許可と旅券を取り上げ、無効とした。そのためリードは仕方なく無許可のまま夜逃げ同然に横浜港を出港したのである。

こうした事件により、日本とハワイ王国との間に紛争が起きた。その紛争は1870年に解決し翌年の1871年には日布修好通商条約が締結された。この条約によって、ハワイ政府は法的には日本人を自由に雇用することができるようになり、また日本人も労働を目的としたハワイ渡航ができることになった。

しかし、日本政府は1872年のマリア・ルーズ号事件を契機に労働契約を1年以内にするという太政官布告を公布したため、実質的に1年以上の契約による移民の送出は不可能な状態となった。

マリア・ルーズ号事件とは、中国人クーリー231名を乗せてマカオから来たペルーの汽船、マリア・ルーズ号が横浜に寄港した際、中国人の脱走により、船内虐待の事実が明らかになったことから起こった事件である。既に奴隷制を廃止している英・米両国は、日本政府はマリア・ルーズ号事件を裁く権利があるとして日本側に事情究明するよう求め、最終的に中国人奴隷すべての解放に成功する。しかし、その後ペルーとの間に紛争が起こり、ロシアの仲裁で裁判が終結したのは3年後の1875年であった。この時、ペルー側に日本にも芸娼妓のような人身売買の事実があることを指摘されたため、日本政府は人身売買を禁止する旨の太政官布告を発するなどの措置をとったのである。

元年者移民に対する問題や、マリア・ルーズ号事件の国際問題化などにより日本政府は海外移民送出に消極的であり、その後の再三のハワイ政府からの催促も太政官布告をたてに断り続けた。しかし、時本政府はその姿勢を変更しなければならない状況が生じて来たのである。

まず第1に、井上馨の外務卿就任とR・W・アーウィンの駐日ハワイ総領事就任による、日本とハワイの親密化。そして2番目には労働契約期限1年という規定が現状に対応できなくなってきていたこと。そして松方デフレによる不況である。

この3点が絡み合って移民送出問題は好転する。その後アーウィンによって日本側に提示された日本人移民ハワイ渡航約定書を、井上外務卿が了承し1885年第1回官約移民945名が東京市号に乗船してハワイへ向け出発する。こうして元年者以来中止されていた日本人移民のハワイ渡航が再開されることとなった。その後、1886年に日布渡航条約が締結されると官約移民は本格化し1894年までの約10年間続くことになる。

官約移民によって29069人の人々がハワイへ移民していったが1894年の移民保護規則の公布により廃止されることになった。移民保護規則の公布に至った背景は大きく分けて2点ある。ひとつはハワイ革命、もうひとつは移民会社の成立である。

ハワイ革命は1893に起こった。革命派は王政を廃止し仮政府を樹立して、アメリカとの合併を進めた。移民を禁止しているアメリカと合併してしまえば、将来的にハワイへの契約労働者の送出は困難になり、官約移民制度について問題が生じることは明らかであった。また、白人の権限を重視する仮政府側の方針により、中国人や日本人などの有色人種に参政権が与えられなかったため、日本人は革命の混乱に乗じて参政権獲得運動を展開した。この運動は失敗に終わり、かえって仮政府側の日本人に対する警戒心を強める結果となり、やがて排日運動と結びついてゆくことになる。

2点目の移民会社の成立について。ハワイ移民によってもたらされる送金額の増大により海外渡航ブームがおこり、ハワイ以外の国々への渡航希望者が続出した。それに伴って移民会社が成立したが、彼らは利益追求のあまり渡航後の移民の保護について重視しなかったため様々な問題が生じ始めていた。

以上のような背景をふまえて
@ハワイ仮政府側が官約移民制度の存続を希望しない場合にも対応できること
A排日気運の沈静化
B移民会社の取り締まりと移民の保護

を目的とし移民保護規則が作成された。この法により、移民取扱人は内務大臣の許可を必要とし、保証金の納入が義務づけられ、また、契約の条件に移民の渡航後の困難の場合における救助が含まれるようになった。この法を基本として移民取り扱い業務と移民の保護は民間の移民会社に委託されることになった。

1894年から契約移民が廃止される1900年までの時期は私約移民時代と呼ばれる。移民業者が営利事業として民間の移民会社によって推進された時期のうち、特に契約移民の渡航が行われた期間をいう。私約移民時代の移民は、日布渡航条約、移民保護規則、移民保護を目的に1896年に施行された移民保護法に基づいて行われた。この時期は移民取り扱い業務の高い営利性が着目され、また移民ブームも手伝って次々と移民会社が設立されていった時期であるが、同時に渡航先の国々での排日感情が高まった時期でもあった。ハワイ政府は中国人と並んでハワイ人に次ぐ人口となった日本人移民が土着して勢力を持つことに警戒心を抱いていた。そのため、日本人移民を制限するのを目的とした外国人上陸条例や、布哇国契約労働者に関する条例を次々と制定し日本人労働者の増加を防止しようとした。日本人移民上陸拒絶事件が起こったのも、このような排日気運が背景にあったためといえる。

1897年6月17日米布合併条約が調印された。アメリカ合衆国の契約移民禁止令が1900年6月から適用され、以後移民会社によるハワイへの契約移民の輸送は日本政府により禁止され、私約移民は終了する。

1900年から紳士協約によって日本人の渡航が厳しく制限されるようになった1908年までは自由移民時代と呼ばれる。自由移民とは契約移民に対する範疇で、渡航費は自弁で、渡航先での職業、居住地の選択が自由だった移民をいう。自由移民はこれ以前にも存在していたが、契約移民禁止後は自由移民が唯一の渡航形態となったのでこの称がある。

契約移民の時代から、3年の労働契約期間後もハワイへ残ったりアメリカへ渡るものが存在したが、ハワイの米合併後は米本土への渡航がより自由になったことで転航が急増した。転航の主因はハワイにおける砂糖耕地労働者と西海岸の鉄道夫や果樹園労働者との賃金の格差であった。また、1905年に日露戦争が終結して軍人、軍用夫たちが朝鮮・満州から引き揚げてきたものの、日本は戦後の経済破綻により失業者を多数抱えていたために、引揚者の多くは北米に出稼ぎを求めて渡航するようになった。

こうした背景により大量の日本人がアメリカ西海岸へ転住するという現象が起こり、低賃金で真面目に働く日本人労働者はアメリカの賃金低率を乱すとして、アメリカでの排日気運が激化してきた。そのため1907年2月、ハワイからの米本土への転住は大統領令により禁止されることになった。

また、1908年日米紳士協約によって新規に日本人移民がアメリカ合衆国へ入国する事が禁止されたが、これは、カリフォルニアにおける排日運動を直接の契機にして締結され、日本側がハワイを含む合衆国へ移民を送ることを自主的に制限することで成立したものである。

1908年の日米紳士協約によって、新規の移民は事実上中絶し、その後、呼び寄せ移民時代に入る。一時帰国の再渡航者を除けば、移民は現地居住者による近親者の呼び寄せに限定された。こうして近親者移住が活発化しこの間に「写真結婚」による花嫁呼び寄せ制が定着したが、この制度も1924年の排日移民法の制立によって不可能となる。こうして、日本からハワイを含む合衆国への移民は名実共に完全に途絶する事になった。

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