■修学旅行事前学習 ------ 東大寺学園編
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移民の歴史
○プランテーション・ビレッジについて○

ハワイ諸島の降水量は、その島々によって大きく異なっている。これはさまざまな海洋風が吹き、また山岳の多い地形という自然条件のためである。一般に諸島の北東側に降水量が多く、南西側では少ない。ハワイ諸島の農作物の分布を見てみると、このような環境を生かして栽培されている。オアフ島とハワイ島を例にとって見ると北東側の雨量の多い地域ではサトウキビ、ナッツ、雨の少ない南東側でにはパイナップル、コーヒーが栽培されており、自然条件を生かした分布となっている。

その中でも特にサトウキビ産業は、1850年代にアメリカ本土からの需要が拡大ハワイ経済を支える第一産業にまで発展を遂げた。しかしその一方で外国人のもたらした伝染病により、ハワイ原住民の人工が急激に減少してしまった。そのためプランテーション所有者は、安い賃金で働く労働者を外国に求めなければならなくなった。これが現在ハワイが多民族社会となった原因であり、移民の始まりである。

最初にさとうきびプランテーションにやってきたのは、砂糖精製に多少技術のあった中国人であった。1852年に最初の中国人移民が訪れ、1884年までに20,525人がハワイの地を踏んだ。しかし中国人は、自分たちだけでコミュニティを形成する傾向があり、独立心も強かったため、契約期間が終了すると彼らの多くは自作農になり、町に住みついた。そのため、耕地主(白人企業家)にあまり歓迎されなかった。そこで、次に招致されたのがポルトガル人だった。しかしヨーロッパとハワイの距離があまりにも離れているため、輸送費がかかりすぎ、あまり盛んにはならなかった。

そして、日本にも要請が来た。当時のハワイ王、カラウエア自らが来日し、明治政府に移民の要請をした。そして1885年から1924年の実質な移民の廃止に至るまで、約21万人の日本人がハワイへ渡った。このような日本からの移民をはじめ、世界各地の移民の生活を、当時の家を復元する事で教えてくれるのが、ワイパフのプランテーション・ビレッジである。移民資料館には昔の日系人の住居、銭湯、神社なども復元されており、説明つきでちゃんと見るには半日はかかる。

移民資料館の展示などによると、日系移民には、主に不況や飢きんなどで生活が苦しかった山口県、広島県、福島県、沖縄県出身の農家の次男が多かったといわれている。(最近では、長男も少なくなかったとの説がある。)ほとんどの人々がハワイに永住するとは考えられておらず、まず男性が単身でハワイに渡り、後に家族を呼び寄せる場合が多かった。

同じプランテーション内で働く労働者が国別にブッロクで敷きられて住んでいた。日本のブロックでは公衆浴場や若宮稲荷神社、床屋があった。また、住居は洋風で二部屋ぐらいで、そこに一家族が暮らしていた。また、火事を避けるためにかまどは外に作られていた。

プランテーション労働者は1日約11時間の労働で、しかもそのうち40分しか休憩時間がなかった。また、給料は成年男子で1日1ドルだった。11時間にも及ぶ炎天下での労働は苛酷であった。そのため、逃亡する人や、病気で亡くなる人も多かった。生活条件も劣悪で、酒や女やバクチにふける人も多かったという。しかし、どの人の心の中にも故郷に錦を飾ろうという強い気持ちがあった。

そのため、いつか日本に帰国したときを考えて自分の子供にも日本語の教育をさせたいというたっての願いから、日本語学校がお寺に設けられた。教師には、プランテーション内の知識人や、寺のお坊さんなどがなった。そのなごりとして、現在でもハワイでは、お坊さんの事を「センセイ」と呼ぶ。

日本語学校は、諸宗派の寺に併設されており、お坊さんが主に指導に当たった。授業内容は読み、書きが中心であり、修身(道徳)も教えていた。生徒はさまざまな人種の人々が通う普通学校(英語で授業が行われる学校)が終わると、午後3時くらいから日本語学校に通った。そして、学年ごとに1時間ずつ教えていたそうである。月謝は、払える人は払い、払えない人は野菜などで払っていたようである。この日本語学校のおかげで、日系二世の人々は日本語が達者である。また、三世の人であっても、うまく話せなくても、話している意味は分かるという。現在日本語学校は減少傾向にあるが、本来の機能を少し変えて存在している。たとえば、日本の華道、茶道や武道を教える「カルチャーセンター」的な要素が強くなっている。

○ハワイへの移民の時期○

1868年、最初の移民。148名が移民。サトウキビ畑などの労働者としての移民で、待遇があまりにも悪かったため、その後1885年まで移民は止められた。

1885年、本格的な移民の始まり。1885〜1894年に移民した日本人は約29,000人で、政府主導での移民だった。

1894〜1900年、民間業者が政府の許可をもらい、移民を募集したり連れていったりした。民間業者が主導だったので、移民した人から"手数料"としてお金を払わせた業者もあった。男性の給料が$12.5/月だった。移民した数は約57,000人。

1900〜1908年、この時期は自由渡航時代という区切りで、約71,000人が移民した。男性の給料は$15〜18.5/月で、アメリカ本土の方が給料が良かったのでそちらに移民した人もいる。よって、一番流動的で活発な時期だった。(ハワイがアメリカになったのは1900年)

1908〜1924年、戦前最後の移民。約61、000人が移民して、男性の給料は $20/月だった。日本人は賃金が安かったので日本人に仕事をとられたりした人々が、日本人排斥運動などを始めて、日本人の渡航が難しくなった。しかし、この時期に「写真見合い」という方式で20,000人の女性がハワイにお嫁さんとして移民した。(いわゆる「呼び寄せ時代」)

1924年、移民禁止となり、以降戦争が始まる。

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