| 1 ハワイの民族構成
まず、ハワイの民族構成を見てみたいと思う。ハワイの人口はおよそ100万人強であるが、その中での最大の民族グループは白人(プエルトリコ系含む)の23%強である。そして第2位が日系人の23%、これらについでポリネシア系先住民ハワイ人(混血含む)の21%、フィリピン系が11%、中国系が5%、アフリカ系(黒人)が2%、朝鮮系が1%である。またこれらの主要民族グループ以外が13%である。つまり現在のハワイはどの民族グループも単独では過半数にならない多民族社会なのである。このハワイの多民族化の原因には二つの要因が関係している。
2 砂糖きびプランテーションと移民
ハワイは元々ハワイ先住民による先住民社会があったが、これを崩壊に追い込んだのはヨーロッパから到来してきた白人たちだった。キャプテン・クックによるハワイ発見は1779年でそれ以来白人のハワイ訪問はその数を拡大していった。これらの白人たちの多くは最初は船乗りが定着したビーチコマーと呼ばれる人々だったが、ハワイの近代化が進むにつれて、貿易商や捕鯨船の乗組員などがホノルルやマウイ島ラハイナの港町に定着するようになった。さらにアメリカ本土からはキリスト教の宣教師やその家族も続々とハワイに到来するようになっていった。ここで多民族化の一つの要因、伝染病が防疫が十分に行われない時代のハワイ先住民の人口を激減させた。クックらが来島した時、一行は先住民人口は約30万人と推定していたが、この様々な伝染病によって19世紀の前半50年間の間に15万から8万へ激減させた。1872年にはハワイ全土で5万7000にまで落ち込んだ。ここで、この人口減少を回復に向かわせたのが砂糖きびプランテーションの開発である。しかし、砂糖きびプランテーションの経営には大量の農業労働力を必要とした。しかし、人口の減少過程にあるハワイ先住民にこれを当てるのは困難だった。また、ハワイ先住民は食料作物の生産には熱心だったが、換金作物である砂糖きびの耕作にはほとんど興味を示さなかった。そこで耕主たちが考えたのが第二の要因、アジアの農業労働者を得る、すなわちアジアからの移民の受け入れであった。
3 移民社会の形成
最初の組織的移民は中国から行われた。これは1850年に労働者移入に関する法案が通過したことがきっかけだった。彼等は五年契約でプランテーションの労働に従事した。賃金は月三ドル、衣服と住居と渡航費が支給された。最初は364名しか中国人はいなかったが、1866年から1884年までに中国人人口は1300人から1万8000人へと急増していた。しかし、「クーリー(苦力)」と呼ばれた低賃金の中国人労働者の流出を阻止する中国人排斥法が1882年にアメリカで成立するとハワイにもその影響が現われ、ハワイ政府は中国人の導入に神経を使うようになっていった。1883年には中国人移民の数を年間2400人に制限する法律が通過、その後1886年には契約労働による中国人の流出はほとんど停止された。また、初期の中国移民の男女比は17対1で圧倒的に男性が多かった。そのため、中国人男性とハワイ人女性との結婚が頻繁に進んだ。このような結婚によって、中国人のハワイ定着は決定的に進んだと言われる。妻の土地を資本に中国人たちは農業や商業に力を発揮し、今日につながる経済的基盤を形成したのだった。
中国人労働者の禁止で手薄になったプランテーションの労働力をつぎにささえたのが、日本人だった。日本からのハワイ移民の第一号は1868(明治元)年6月20日だった。横浜から乗船した148名の移民は貿易商ヴァン・リードによる英国籍帆船サイオト号によるもので、いわば密出国に近いものであった。彼等は後に「元年者」と呼ばれるようになる。正式な国交の日本から送られてきたこの移民は失敗に終わり、日本への帰国者、米大陸への転航者を差し引くと30数名しかハワイに残らなかった。密出国に近い非合法な移民に不快感を表した明治政府も1885年2月8日には当時のハワイ王朝政府と正式に労働者移民に関する条約を結んだ。これを官約移民と呼んだ。第1回船のシティーオブトーキョウ号では946名の移民がハワイへ到着した。以来1894年6月15日ホノルル着の三池丸に至るまで26回の官約移民2万9139名がハワイに来ている。その後移民の形態は共和国政府時代になって個人契約に基づく私約移民に変わり、日本人移民たちは契約労働による無権利状態から部分的に解放され、移民は拡大しつづけた。しかし、1907年にアメリカの移民法が改正され、日米政府の紳士協定で労働移民が制限されると、呼び寄せによる移民へと形態が変わり移民数は減少へと向かった。さらに1924年に排日移民法が制定されると日本からの移民は実質的に不可能になった。しかし、これまでに約21万人の日本人移民がハワイに渡ったのである。
4 多様な移民社会
このような過程はなにも日本人だけに限らない。それは新たにハワイの社会に参入してきた移民たちがたどる気の遠くなるような長い道のりでもあった。フィリピン系移民もハワイ砂糖耕作者組合(HSPA)によって熱帯農業に適するという理由でハワイに連れてこられた移民集団だった。最初の移民は1906年に実験的にマニラから連れてこられた15名の労働者であった。その後フィリピン系移民は急速にその数を増やしていった。1930年までに約10万人のフィリピン系移民がハワイへ渡った。これらのほとんどは男性だった。フィリピンからの移民が比較的容易にハワイに来られたのはフィリピンがアメリカの植民地だったからである。しかし、30年代の経済恐慌以降移民は減少し、多数が本国に帰ったり、アメリカ本土に渡ったりと流出傾向にあった。そして、戦時中の日本のフィリピン支配を経て戦後再び移民数は増加したが1946年にフィリピンが正式に独立してからはフィリピン系移民は原則的に他の国からの移民と同じ扱いになった。沖縄系移民は日本系移民と同様の手続きでハワイにやってきた。日清戦争後の不況のため、人口過剰に陥った沖縄から人減らし目的の移民26人が1900年にホノルルに到着した。これ以来1924年までに約2万人の沖縄系移民がハワイに渡った。沖縄系移民は日本人社会からの厳しい差別が日本人とは別個のグループを形成させた。他にもこの時期にはポルトガルや朝鮮など、色々な民族が移民してきて、現在のハワイのような複雑な多民族社会を創り出したのだ。
<参考文献> 岩波新書 ハワイ 山中速人著
|