
パールハーバー「黒焦げの水筒」慰霊祭
12月7日は、ハワイ、アメリカ、そして日本にとって、歴史的にとても重要な1日です。
そう、それは真珠湾攻撃が行われた日。
真珠湾攻撃73周年記念式典の一貫として、パールハーバーアリゾナ記念館にて
The Blackened Canteen Ceremony「黒焦げの水筒」慰霊祭が行われました。
パールハーバー(真珠湾)
さすがにこの日は、多くのアメリカ人観光客が訪れています。
日本人は若干少なく感じますでしょうか。
数多くの式典が行われるため、準備が進められております。
「黒焦げの水筒」慰霊祭とは
「黒焦げの水筒」慰霊祭についてご説明しましょう。
「黒焦げの水筒」慰霊祭は、1945年6月の空襲時に静岡市上空で衝突し、墜落した米兵の遺品である水筒を使い、
静岡市在住の菅野寛也医師が行う慰霊祭です。
墜落現場で発見された水筒には、握りしめていた米兵の指跡がくっきりと残っており、壮絶な最期を物語っています。
菅野医師が日本から持参したその水筒を使い、日米両国の犠牲者の冥福を祈り、
真珠湾攻撃で沈没した戦艦の上に建つアリゾナ記念館から海へ献酒する行事なのです。
菅野医師は、1972年より賤機山(しずはたやま)の山頂にある静岡市民への記念碑「平和観音像」と、
23人の米兵への大理石の石碑「B29墜落搭乗者慰霊碑」にて、毎年6月20日に一番近い土曜日に日米合同の慰霊祭を行っています。
菅野医師は、1991年にパールハーバーで行われた開戦50周年記念式典へ参加、翌年1992年には、
真珠湾攻撃で沈没した戦艦アリゾナがあるアリゾナ記念館で水筒を使い、「黒焦げの水筒」慰霊祭を行っています。
その後も同じ時期に何度もアリゾナ記念館を訪れ、同セレモニーを行っています。
アリゾナ記念館へ
水筒を大事に抱えながらリラックスした面持ちで、ボートデッキへ向かう菅野医師です。
こちらのボートに乗って、海上のアリゾナ記念館へ向かうのです。
来賓、関係者を含む参列者が揃ったところで、ボートへ乗船です。
菅野医師ら主賓、来賓の方々はボートやや前方に座られました。
ここから約5分程、海上を進みます。
アリゾナ記念館が見えてきました。
独特な造形の白亜の建造物です。
アメリカ国旗が両サイドに掲げられた入り口を通り抜け、内部へ進みます。
このアリゾナ記念館の真下に、戦艦アリゾナが沈んでいます。
海には、73年が過ぎた今も重油が流れ出し、その爪痕の大きさを伺わせます。
この戦艦には、いまなお1,177名の兵士が眠っているのです。
この場所で、後ほど黒焦げの水筒より献酒が行われます。
さぁ、慰霊祭は一番奥のホールで行われます。
「黒焦げの水筒」慰霊祭
戦争で殉死したアメリカ兵士の名が刻まれた白い壁の前に「黒焦げの水筒」が納められ、
慰霊祭が始まります。
太平洋航空博物館パールハーバー最高顧問、アメリカ合衆国国立公園局 主任歴史家ダニエル・マルティネス氏の挨拶に始まり、
司会進行がなされます。
静粛なムードではありますが、そこはアメリカ特有のユーモア「挨拶は一人3分までね」といった笑いも交えられ、
和やかに進められました。
写真一番右:太平洋航空博物館パールハーバー館長ケネス・デホフ氏
菅野医師が、「黒焦げの水筒」と犠牲者へ一礼をし、
今回の「黒焦げの水筒」慰霊祭での想いを共に集まった皆々に英語で伝えました。
その後、明るい雰囲気の中、戦艦アリゾナを見下ろせる先程の中央ホールに移動し、水筒から献酒が行われました。
そして、犠牲者の冥福を祈り、その場に集まった方々から海へ花が手向けられます。
ご遺族の方でしょう。
当時の記憶に想いを走らせる様子や、込み上げる想いから涙が頬を伝う方がいらっしゃいました。
その後も、参列した方々からの祈りが続きました。
また、来年もこの慰霊祭は行われます。
世界の平和、人々の幸せを戦艦アリゾナと共に沈む犠牲者たちも願っていることでしょう。
(By イチハチサン)
菅野様
NHK深夜便でお話を伺い感銘をうけました。
ありがとうございます。
一度、賎機山を訊ねたく思います。
千葉県習志野市
大森東亜
菅野様の敵味方の恩讐越えた長年の慰霊祭実践に感動しました。
本当の世界平和は、菅野様のような博愛の心の輪を拡げていくことにあるのではないでしょうか。
安倍総理とオバマ大統領参列のパールハーバー慰霊祭の礎となる菅野先生の長年の活動を知って感銘致しました。
先生のご自宅の屋上にゼロ戦航空機が置かれていたのを鮮明に記憶しています。 JMSとしてお世話になった頃より“黒焦げの水筒”の活動をなされておられたのですね。
ご健勝をお祈り致します。
千葉県柏市 峯嘉伸
NHK 深夜便放送でお話を聴き感動致しました。
戦争を知らない多くの若者達に、パールハーバー「黒焦げの水筒」慰霊祭 ー モーハワイ を覗き見て貰いたく 若者達に話し掛けます。
京都市で唯一、小生の通学する小学校に米軍(Bー29)からの空爆をうけた者。
1945年6月20日、静岡市が空襲にあった時、6歳の幼稚園児だった私は、母の
手に引かれ、市内の自宅から山奥の親戚に避難しました。その途中、牧ヶ谷橋の真中まで来た時、市内の方を振り返ると真っ赤に燃え盛る市街にB29が一機墜落していくのを目撃したのです。幼稚園でも軍事教育を受けていたのでしょう、思わず万歳を叫んだことを覚えていますが、当時はB29の搭乗員にまで想いを致す気持ちの余裕は全くありませんでした。
その後、B29の乗員が持っていた水筒を収集された菅野寛也氏(高校の先輩でした)が世界の平和を願い、慰霊の行脚を続けられていることを知って、感動するとともに、心から敬意を表する次第です。